ベルリンを歩くPart4: 1冊の本を携えて負の記憶をたどる旅①
観光地再発見の旅⑬-7
昨年1冊の本を手にすることになりました。
"「ホロコーストの記憶」を歩く-過去をみつめ未来へ向かう旅ガイド(石岡史子・岡裕人著)"という本です。
年末年始は4泊5日ベルリンの旅と決めた時点で、この本で紹介されている場所へ行ってみようと家族で話していました。
1冊の本がきっかけで、今までとはちょっと違ったベルリンに出会った今回の旅、今回はそんなベルリンの町歩きレポートです。
Sバーン・グルーネヴァルト駅「17番線」
ベルリン郊外にある"Grunewald(グルーネヴァルト)"駅は、ベルリン市内からS7番で行くことが出来ます。
中央駅"Berlin Hbf(ハオプトバーンホフ)"から15分程、"Zoologischer Garten(ツォーロギッシャー・ガルテン)"駅からは9分程です。
1941年10月から1945年3月までの間、5万人以上ものユダヤ人が、このグルーネヴァルト駅から強制移送されたと言うことです。
そのため、この駅の17番線が追悼記念施設としてドイツ鉄道"Die Deutsche Bahn(ディー・ドイチェ・バーン)"によって公開されています。
駅構内からも17番線へと行くことができますが、駅前の通りが直接17番線と繋がっていますので、外から入ることもできます。
通りのコンクリートの壁には、人型が彫り込まれていています。駅と白いコンクリートの壁の間には、5万人以上のユダヤ人犠牲者を追悼する石碑が立てられています。
「人間の生命や尊厳をないがしろにするいかなることにも、勇敢に躊躇(ちゅうちょ)なく立ち向かわなければならない」と警告する碑が立っている。
17番線のプラットホームには、その1つ1つに「いつ、何人のユダヤ人がどこへ」強制移送されたかが記された鉄のプレートがびっしりと並べられています。
私たちが訪れた日、その中の1つにお花が供えられていました。
鉄のプレートは、時系列に並んでいます。
最初の1枚目に刻まれていたのは、
18.10.1941/ 1251JUDEN / BERLIN‐LODZ
1941年10月18日/1251名のユダヤ人/ベルリン-ロッヂ
最後の1枚目に刻まれていたのは、
27.3.1945/ 18JUDEN / BERLIN‐THERESIENSTADT
1945年3月27日/18名のユダヤ人/ベルリン-テレジエンシュタット
この中には、目的地にアウシュヴィッツ"AUSCHWITZ"も数多く刻まれています。
1941年10月18日、ベルリンのユダヤ人1,251人を乗せた帝国鉄道の特別列車が、ポーランドのウッチ(ドイツ語でロッヂ)のゲットー(ユダヤ人強制移住区)に向けて、はじめてグルーネヴァルト駅を出発した。
1942年夏からは、ナチはユダヤ人を殺害目的で、直接アウシュヴィッツのような絶滅収容所に送り込むようになった。
ベルリン・ユダヤ博物館
世界各地にあるユダヤ博物館の中でも、ベルリン・ユダヤ博物館はユニークだ。
バロック建築の「旧館」とメタリックで鋭利なモダン建築の「新館」のミスマッチな外観に目を奪われる。 (中略) ナチにより迫害されたユダヤ人が3つの道、すなわち「亡命」「ホロコースト(絶滅)」「継続(生き残り)」の軸を、それぞれ追体験できる。(後略)
本に紹介されていた体験型のユニークな博物館というのに興味を持ち行ってみました。
駅から住宅街を歩くこと約10分(Uバーン・コッホシュトラーセ駅/または、ハーレッシェス・トアー駅から)、突然開けた通りに重厚な建物が見えてきます。
その脇には本にもある通り、かなり近代的な建造物が見えます。
最近のニュースで注目されていることもあるのか、私たちが訪れた時にはかなりの長蛇の列が出来ていました。
それでも30分くらいで入れたので、待っても大したことはありませんでした。
博物館内の写真撮影は可能(フラッシュは不可)でしたが、ここは是非実体験して頂きたいので写真の掲載を控えます。
ホロコーストの塔"Der Holocaust-Turm(デア・ホロコウスト・トゥルム)"の部屋に入ると、物凄く遠い一筋の外の明かりだけが見える真っ暗闇に立たされます。 ぞっとする感覚が身に迫ってきます。
ヴォイズの空間"Die Voids(ディー・ヴォイズ)"も、やはり自然光だけの細長い部屋ですが、継続の道にあるここは、先程の真っ暗闇に一筋の明かりとは異なりやや明るい空間です。
でも足元には、人の悲しい顔型の鉄板が敷き詰められていてその上を歩くのは決して心地よいものではありません。
私たちが訪れた時は、亡命の道の亡命の庭"Der Garten des Exils(デア・ガルテン・エクシールス)"はクローズで入れませんでした。
いずれも今までには出会ったことの無い感覚で、私にとっては、こんな体験型のミュージアムは初めてで大変興味深いものでした。
Sバーン/Uバーン・フリードリッヒシュトラーセ駅
ベルリン市内の中心に位置し、Sバーン・Uバーンの各線が集結するターミナル駅 "Friedrichstraße(フリードリッヒシュトラーセ)"にも、過去を忘れないためのブロンズ像があります。
生への列車 死への列車"Züge in das Leben - Züge in den Tod(ツェーゲ・イン・ダス・レーベン-ツェーゲ・イン・デン・トート)と名付けられたこのブロンズ像ですが、眺めていると身につまされる思いがこみ上げてきます。
このブロンズ像は生死を分けた子供たちの運命を象徴しています。
亡命した子供たちと亡命が叶わず収容所へ強制移送されていく子供たち。
1938年の帝国ポグロムの夜事件の直後に、イギリス・オランダの救援団体により組織された子供たちをイギリスへ送ろうという救援活動、子供の輸送"Kindertransporte(キンダートランスポルテ)"を記録する記念の像です。
この子供の輸送は、1939年9月初めまで行われ、生後4ケ月から17歳までの約10000人の子供たちが親元を離れイギリスへ送られたということです。
亡命できた子どもたちの運命もそれぞれで、ホストファミリーに迎えられた者はわずかで、下働きをさせられたり、差別を受けたりする者も多く困難な道だったことに変わりは無かった様です。
お母さんが出発時にアイロンをかけ、きれいにたたんで手渡してくれた白いリネンを渡されたままのきれいな状態で保管していたという青年の所持品がユダヤ博物館の亡命の道に展示されていました。 亡命をして命は助かったけれども、二度と母親に会うことができず、リネンを開くことができなかったと説明にあったことを思い出します。
このブロンズ像の作者、彫刻家のフランス・マイスラー"Frank Meisler"自身も、この子供の輸送で、オランダを経由してイギリスへ渡り救助された子供の1人なのだそうです。
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